去る10月5日(日)、明治大学駿河台キャンパスにおいて第8回歴史総合シンポジウムが開催されました。「『戦後80年』と歴史総合」がテーマでした。歴史総合シンポジウムは今年度まで8回連続で開催されていてノウハウも蓄積されており、運営はきわめてスムーズで、たいへん充実した報告とコメント、質疑応答がなされました。上野理事(神奈川県立相模原中等教育学校)による趣旨説明につづいて、報告とコメントを担当された内田圭亮(神奈川県立相模原中等教育学校)、高柳昌久(国際基督教大学高等学校)、高野弘之(武蔵野市武蔵野ふるさと歴史館)、藤田玲史(岐阜市立女子短期大学)、成田龍一(日本女子大学名誉教授)の各氏に心からお礼申し上げます。
本年度のシンポジウムで印象深かったのは、教育現場における先生方の創意工夫の努力とともに、成田氏のコメントでした。成田氏は、戦後80年を、敗戦からベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結した1989年までの「戦後」と、その後現在までの「『戦後』後」に分け、「『戦後』後」における平和教育はどうあるべきかを問うていたからです。
これはたいへん重い問いです。歴史研究者にとっても、1989年以後の世界、さらに2022年のロシアのウクライナ侵攻以後の世界をどう考えるべきかは、大きな問題です。しかし歴史教育の現場にとっては、さらに重い問いだと思います。「『戦後』後」の平和教育は、そう簡単なものではないと思われるからです。というのも、ある程度は「戦後」を生きて内在化させている教員と、「『戦後』後」に生まれSNSなど多様なメディアが提供する情報によって醸成された時代の空気を吸っている生徒とのあいだには、無視しがたいズレがあると思われるからです。
もちろん、「戦後」においては、事情は異なっていました。たとえば、大内兵衛や清水幾多郎、丸山真男などによって結成された「平和問題懇話会」が活動した1950年代の日本社会を考えてみれば良いと思います。1951年9月には、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印され、翌年4月には両条約が発効して日本の独立が実現した時代でした。この講和の動きのなかで平和問題懇話会は全面講和(ソ連などの社会主義国も含めた全面的な講和)を主張し、社会党も1951年1月、「全面講和、再軍備反対、中立堅持、軍事基地反対」(「講和4原則」)を掲げました。「講和問題」を特集した総合雑誌『世界』の1951年10月号は即日完売し、最終的に15万部売れたとされています。この特集によって、日本国民は、広島・長崎の原爆の被災状況をはじめて知ることになりました。こうして原子兵器の使用禁止を謳ったストックホルム・アピールの署名数は、645万を数えました。国勢調査によると、当時の日本の人口は約8500万人、平均家族人数は5人でしたから、2〜3家族につき1人はストックホルム・アピールに署名したことになります。平和への願いは、敗戦から間もない日本人の日常生活に根ざした思いであったわけです。そのような環境の下では、教員と生徒とのあいだに戦争と平和にかんして共通了解があり、平和教育もやりやすかったのではないかと思われます。
しかしながら「『戦後』後」の現在は、そのような環境下にはありません。そのような「戦後」とは異なる局面において、「歴史総合」において平和教育をどう実践すべきかが問われたわけです。この問いに対する答えは一筋縄ではいきませんが、今回のシンポジウムにおける平和教育の実践報告には、そのヒントが垣間見えたように思います。身近な軍事関連施設跡のフィールドワークや被爆者の「語り」を聞くことなどによって、生徒が「戦争と平和」の問題を「自分事として捉える」ことができるようになったという報告は、つよく印象に残りました。戦争と平和にかんする門切り型の言説を超えた言説を紡ぎ出した生徒がいたことも驚きでした。今回のシンポジウムでも、「歴史総合」の難しさとともにその可能性を大いに感じた次第です。
2025年12月3日 歴史学会会長 松浦義弘

