昨年の12月8日(日)、歴史学会第49回大会シンポジウムが大妻女子大学千代田キャンパスで開催されました。「人間と動物の関係史」というテーマをめぐって、鈴木明日見氏(駒沢大学)による趣旨説明に続いて、きわめて興味深く充実した報告とコメントがなされました。報告とコメントを担当された志村真幸(慶應義塾大学)、伊東剛史(東京外国語大学)、富田敬大(神戸大学)、菅豊(東京大学)の各氏に心から御礼申し上げます。
シンポジウムの報告・コメントを聞いて思い出したのは、中村吉治が学生だったとき、日本中世の農民史を卒論のテーマに選びたいと指導教授の平泉澄に相談したところ、平泉が「百姓に歴史がありますか」「豚に歴史がありますか」と言い放ったというエピソードです。このエピソードは雑誌に掲載され広く知られていますから、ご存じの皆さんもいるかと思います。平泉の放言の真意は正確にはわかりませんが、豚は言葉を話さない、農民も歴史の素材となる記録を残していないということでしょうか。あるいは皇国史観論者の平泉のことですから、農民の歴史は皇国の歴史にとっては何の意味もない、ガラクタの寄せ集めにすぎないということだったのかもしれません。もう一つ思い出したのは、フランス史の喜安朗さんが高橋幸八郎に対して「私にとって農民層分解の下層にたまるものが問題です」と言ったところ、高橋から「それはカスです」と言われてビックリしたというエピソードです。高橋の発言は、資本主義的進化をになう「中産的生産者層」に焦点を当てて農民層分解を検討することを重視すべきだという考えからでたものでした。
平泉澄や高橋幸八郎の発言から窺えるように、歴史家も世界を分類し、分類したもののあいだに優劣を設け序列化しがちです。そのために自分が重視する対象から外れるものが軽視され見えなくなる、歴史認識には不可避的にそういう問題がつきまといます。さいわい、平泉澄が卒論のテーマとして許容しなかった農民や農民一揆の歴史は、その後、中村吉治自身によって研究され、戦後歴史学においてもかなり重要な研究テーマでありつづけました。私事にわたって恐縮ですが、高橋幸八郎によって「カス」とされた「農民層分解の下層にたまるもの」も、私が1975年度の卒論「アンシャン・レジームにおける農民層分解と革命期の農民運動」で重点的に論じたテーマでした。
このように、農民さらに貧農の歴史は、それらの歴史が軽視されていた時期からあまり時間をおかずに出現しました。しかし豚の歴史、そしてより一般的に動物の歴史は、つい最近にいたるまで取り上げられなかった歴史であり、戦後歴史学からは最も遠い歴史であったように思います。その意味で今回、歴史学会が大会シンポジウムのテーマとして「人間と動物の関係史」を取り上げたことは、画期的であったと思います。
今回のシンポジウムでの報告とコメントを聞いて改めて思ったのは、菅豊さんも指摘していたように、「動物の歴史」が「人間中心主義」から「脱人間中心主義」への世界観の転換の結果として前景化しているということでした。その意味でそれは、環境問題への取り組みやヴィーガンの主張などとも連動する、政治性・実践性を帯びた問題です。そして当然のことですが、動物は私たちと同じ言葉を用いず、みずからの歴史を語ることもありません。ですから、「動物の歴史」はあくまで人間の側の歴史の問題であり、「人間と動物の関係史」というかたちを不可避的に取らざるをえません。文化や社会のありようとその変化を映し出す鏡のようなものだといってもよいかもしれません。ともかく、いろいろと考えさせられたシンポジウムでした。
2025年1月22日 歴史学会会長 松浦義弘